古典文学の超長編「線一夜物語」(アラビアンナイト)。物語の大枠は、新婚のお妃様が千一夜にわたって国王に寝物語を語って聞かせる、という内容です。ファンタジーから宗教説話、恋愛物語や武勇伝など千一夜分の多彩なジャンルの物語が繰り広げられます。実はこの作品には色々なバージョンがあるんです。例えば同じ三百三夜であっても、バージョンが違えば全く違う物語が語られているわけです。完訳版は厚い文庫本で10冊を超える超長編なので、自分の嗜好に合ったものをじっくり選んで読みたいものですよね。主なものとその特徴をご紹介します。
西洋人による訳の二代横綱はバートン版とマドリュス版
古典作品ですから、現在出回っている本は、十数点の写本や骨董品的な印刷書をもとに編集、翻訳されたものです。訳する人によって、使う原典や訳の方針によってかなりの幅が出てくるわけです。
そもそも日本人は西洋経由でこの作品に出合いました。日本語訳は、西洋人による訳をさらに訳した重訳版が先に出回りだしました。主な完訳版は、バートン版とマドリュス版という2つのバージョン(以下、「版」と書きます)です。
バートン版は1818年に刊行された英語の訳です。訳のもとに使われているのは「カルカッタ版」と呼ばれる原典。脱落の少ない完全に近い状態で伝わっているので、訳者はこの版を選んだようです。特徴は訳者による注が多いので文化的な背景について知識を補足しながら読める点です。物語を味わうだけでなく、本書を通じてイスラム文化全般について知見を深めたい読者に向いているといえるでしょう。ただし、訳者が知識をひけらかしているようで煩わしいと批判する向きもあるようです。
マドリュス版は1900年に刊行されたフランス語の訳です。「ブーラク版」と呼ばれる原典を基にしていますが、不完全な版なので、他の版を大量に援用しています。訳者による加筆も一部含まれます。版の選択や編集には良くも悪くも訳者の裁量が大幅に入り込んでいるといえるでしょう。バートン版とは対照的に注を多用しない方針で訳されているのが特徴です。物語を楽しむことを主眼にしている読者に向いているといわれます。
どちらも基本的には原本の一語一語に忠実に訳する方針を取っている版として、世界的に高く評価されています。
日本人による完訳、前嶋版
外国語を経由しない訳を読みたい!という思いにこたえてくれるのが1966年から92年にかけて刊行された前嶋版です。アラビア語版から日本語に直訳されているほぼ唯一の版です。「カルカッタ第二版」という版を基にしていますが、ブーラク版や西洋人による翻訳も注意深く参照しながら訳されています。前述のバートン、マドリュス版に比べてだいぶ後に刊行された分、その後の研究成果も反映されていると期待できます。学術志向、本格志向の人にはこちらが向いているといえるでしょう。
有名作品が収録されていない?
実は「千一夜物語」の原典に、子供向け「アラビアンナイト」でおなじみの「アラジンと魔法のランプ」「アリババと四十人の盗賊」「シンドバッドの冒険」は収録されていません。背景には早い時期に「千一夜物語」を訳した西洋人が、現地の物語を「千一夜物語」の中に含めて刊行したという経緯があります。したがって完訳版では別冊の中に収録されています。
超長編ですから、短期間で読めるものではありません。ただ、多くの物語が集まった短編集なので、途中まで読んだ内容を忘れる心配なくインターバルを入れられます。一気に読まず、他の本を間に挟みながら数年かけて読破するという読み方をしても良いでしょう。イスラム文化の香りと、大きな達成感をたっぷり味わってください。
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